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無償の利他行はとてもできない [チベット]

人のために何かをすることを仏教では利他行と言う。それに対して自分のためにする行を自利の行と言う。利他と自利は必ずしも相反するものではないと仏教では教えている。真の利他行は究極的には自利にもなると言うし、あるいは本当の自利は徹底した利他行によってのみ得られるとも説く。

ツォンカパの『ラムリム(菩提道次第論)』では、大乗の説明に入ったところで、利他の精神および、それに基づく菩提心を詳しく扱っている。それによれば、大乗に入る入り口、しかも唯一の入り口は菩提心を起こすことである。

菩提心とは、他者の利益になることを行うために、完全な覚りを目指そうという気持ちである。菩提心には、他者の利益を望む心と、覚りを目指そうとする心という2つの希望が必要となるが、より重要なのは前者、すなわち他者の利益を望む心である。利他の精神である。ひとのためになることをしたいと望む心である。利他行を実践しようとしたとき、本当にそれを実現するためには仏陀の覚りを目指さなければ、利他を実践できないことに気付いて、利他のために覚りを目指そうと決意することになる。

その利他の精神は、さらに悲心、すなわち他者の苦しみに対して、苦しまないようにしてあげたいという憐れみの心が根本となっている。憐れみの心が出発点であり、まち利他行を維持する原動力である。

ふつう「慈悲」と一括りに言われるが、慈と悲は別ものである。慈とは、現代語では愛と言い直してもいいだろう。他の人が幸せであって欲しい、幸せでいられたらいいなと思う気持ちである。悲は他者の苦しみを取り除きたいという気持ちである。まずは愛する気持ちがなければ、その愛するものを苦しみから救い出したいという気持ちは起こらない。だから、まずは愛する気持ちを持つことが必要である。

その愛する気持ち(そして憐れみの気持ちも)を起こすにも、段階を踏んで大きく育てていく必要がある。あるいは段階を踏んで大きく育てていくことができる。

まずは、自分の近しい人、家族や親友などに対して愛する気持ちを持つこと。次は、自分に利害のない第三者に対して、自分の近しい人に対するのと同じような愛情を持てるようにすること、最後は、自分にとって害をなす人に対しても、近しい人に対するのと同じような愛情を持てるようにするのである。一切の衆生は、この三タイプに尽きる。したがって、この三段階を踏んで愛情を広げていけば、最終的には一切衆生を等しく愛することが出来るようになる(はず)とツォンカパは力説している。

愛情が全ての衆生に対して等しく向けられるようになれば、次はその愛すべき一切衆生が苦しみに沈んでいるのを見ていられなくなり、何とかしてあげよう、助けてあげようという気持ちもまた一切衆生に対して持てるようになる。この限りなく大きくなった悲心を「大悲心」と言う。

それが原動力となり、自分の心を訓練し、菩薩行に励み覚りを目指すことになる。

これが菩提心を心に生じるためのプロセスである。

もちろん、これは凡人には難しいことは明かである。自分のことを顧みても、見返りを期待しない利他の行いはとても難しい。できそうにないばかりか、そうしたくないという気持ちさえある。

僕は教育者だから、自分の知っていることを教えてあげたいという気持ちは人一倍持っている。人のために自分のできることをしてあげたいという気持ちも持っている。それは威張りたいわけではないし、誉められたいわけでもない。またGive and Takeの気持ちでもない。自分だけが何かをしたら損をすると考えているわけでもない。だいたい、教育というのは、学生から同じように何かをしてもらうことを期待してするものではない。人のために何かをするとき、純粋にそうしてあげたいと思っている。これはある意味で悲心と言ってもいいかもしれない。

だが、まったく無償の気持ちで人のために何かをしているかというと、やはりそうは言い切れないものがある。人のために何かをしているとき、何を期待しているのだろうか。たとえば、教えているときには、学生がそれを身に付け、出来るようになることを期待している。もちろん、完全に出来るようになることまでは考えていない。少なくとも身に付けられるように努力することを期待しているし、また教えてもらえることを喜んでくれることも期待している。

困っている人に何かしてあげようとするとき、その人が楽になって欲しいと思うと同時に、感謝してくれることを期待している。鳥や猫をかわいがっているとき、僕に対して絶対的な信頼の眼差しを向けてくれることを期待している。

これらを期待しているからと言って、それはその行為の目的でも動機でもないことは確かである。しかし、もしこれらの期待が満たされないと、やはりやる気を失ってしまう、あるいは少なくとも積極的な気持ちを失ってしまうことも事実である。

また、僕がそうやってしてあげる対象は、全ての人に対してではない。そこには「近しい人」に対して、ある特定の人に対して、という限定がある。その近さの度合いに従って、何かをしてあげたい気持ちの強さも変わってしまう。

このような僕の利他の行為は「大悲心」や「大慈心」に基づくものでないことは明かである。しかし、僕の小さい心は、そのような期待や限定を持たずに人のために何かをすることができそうにもないのである。それでも、少しでもその行為の徳を積んで、来世では大悲心を実現できるような人間に生まれ変われることを期待したい。
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