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くそ勉強について、あるいは君は関口存男を知っているか [チベット]

 関口存男という人を知っているだろうか。たぶん、今の若い人は全く知らないだろうし、僕と同年輩であっても知っている人は少ないだろう。昭和の初期から戦後にかけて、ドイツ語の教科書や参考書、講座物をたくさん出版し、今は廃刊してしまった『基礎ドイツ語』という雑誌を出し、一時期の日本のドイツ語教育界をリードした人だった。彼は、死ぬまで『冠詞』という3000ページを超す研究書を執筆していた。その学問はあまりに孤高で、それを継ぐ人はいなかったが、ドイツ語教育法については、しばらくの間(たぶん、1990年代半ばくらいまでは)信奉者が大勢いた。

 その関口存男(「つぎお」と読む)が最初にドイツ語を勉強したときの話が、非常に印象的だった。うろ覚えで創作が入っているかもしれないが、次のような話だった。彼は、たぶん中学生くらいに当たるのだろう、陸軍幼年学校でドイツを学び始めた。文字と発音を学んで辞書が読めるようになったので、心斎橋の洋書店(丸善だったかもしれない)に行って、懐具合の関係でレクラム文庫のところに行った。まだ単語は覚えていないから何が書いてあるかは分からないので、とにかく一番分厚い本を買った。分厚い本を読めばドイツ語ができるようになると思っていたそうだ。それが後でわかったのだが、『罪と罰』の独訳本だった。それを寮で読み始めたが、もちろん皆目分からない。ときどき、知っている単語に出会うが後は分からないから辞書を引くが、それでも理解出来ない。理解出来ないものを数ページ読む人はいるが、たいていはそこで止めてしまう。ところが彼は100ページ、200ページととにかく何度も何度も読み直し、意味が分からないままに暗記するほど繰り返し見つめながら読み進んでいった。そうしているうちに、個々の部分の意味は分からないのに、話の筋が分かるようになってきた。小説が予想通りに進んでいくようになった。そこである日、最初のページを読みなおしてみたら、どういうわけか、ピタっと書いてあることが分かるようになっていた。そのときには、ある一つの語を見ると、それの文例がいくつも頭の中に浮かんでくるまでになっていた。頭の中はドイツ語のスピーカが常時鳴っているような状態になっていた。その後は、雪だるま式に理解できる箇所が増えていき、ついに『罪と罰』を読み切ることがてきた。

 彼は、その後もラテン語やギリシャ語、フランス語などを同じようにして見につけていった。ラテン語だったかフランス語だったかは、勉強を初めて一年後にアテネ・フランセで教えるまでになっていたという。

 こういう勉強の仕方をかれは「くそ勉強」と名付けた。その「くそ勉強について」という文章が今はもう手に入らない『関口存男の生涯と業績』という本に転載されていた。僕も持っているはずの本だが、どこかに行ってしまってすぐに見つからない。ネットで探したら、その最初の方だけ入力してくれている人がいた。以下に、ちょっとだけ引用する。

「くそ勉強について」関口存男

 ただモウとにかく机にかじりついて、遮二無二、馬車馬のように、人に笑われようが、頭の好い人たちにどう批評されようが、そんな事には一切お構いなく、めくら滅法に、とにかく勉強勉強また勉強、「あの男少し頭がどうかしてやしないか」と云われるほど勉強に凝ってしまって、友達には少々敬遠され、親兄弟にはトックの昔に見離され、学校の先生には苦笑とも微笑ともつかぬ或る種の非常に特殊な表情を以って注目され、役人とか、警官とか、新聞記者とか、犬とか、自動車とか云うような現実界の不可抗力からは、時々剣つくを喰ったり、どなられたり、尋問されたり、吠えつかれたり、突きとばされたりしながら、それでも感心に乗るべき電車にはチャンと乗って、家から学校へ、学校から家へと、マア大体無事にたどり着き、たとえば決して列車のホームを間違えたために月世界や火星まで行ってしまっって、着いてからはじめて気がついた……なんて失敗はしたことがないと云う……(これが実に大変な努力なんで、あらゆる夢遊病的行住坐臥にもかかわらず、こういう些細なところにも如何に懸命の努力が払われているかという所にも注目して頂かないと、私が今から紹介しようとする或る種の特種な市民タイプは、神にも仏にも見離された上、おまけに同胞人類にまでのけ者にされる危険があるのです!)

 エート、文章が暴走しちゃって、どういう副文章で書き起したのか思い出せなくなっちゃったが、とにかくマア、そういう型の人間があるということを云おうとしたのです。称してクソ勉強と云います。

このくだりが非常に印象に残っていた。文章の後半の方でだったか、別の文章であったか、勉強というものは、明日試験だという前の晩の一夜漬けを、一日だけではなく、毎日そのような意気込みで勉強しなくてはならない、とも書いてあった。

僕がそんな勉強をしてきたというわけではないが、いつもこの「くそ勉強」のことは頭の片隅にあった。若い時にしかできないがむしゃらな勉強というものがある。読むものが何でも頭に入る、毎日、おしりが硬くなるくらい机の前に座って、テキストを手で書き写し、辞書を引き、何度も何度も読み、コメントを付け、訳をし、さらに読み直して訳し直す。その時期に僕の近眼も進んで眼鏡をかけるようになった。若い時のその理解と記憶は、今になってもまだ(細かいことは大分忘れているが)しっかりと残っている。その後にやった研究などは忘れてしまっていても。

大学院の頃は、そもそも授業なんて半分くらいしか出席しなかったし、年に一度か二度担当のところを訳せばいいだけだった。授業よりも先輩についての読書会の方が勉強になったが、それもあくまで周辺分野の話だった。自分が専門にしている分野は自分一人で読み、考え、学び、書いてきた。修士論文が仕上がったときには、その分野では指導教官の先生よりもよく知り理解していた。もちろん、訳の部分や構成の部分などの不手際はあったし、分かりやすい書き方ができていたわけでもないが、本質に関しては揺るがなかった。

それは決して特殊なことではなかったと思うし、僕などは決して勤勉な勉強家ではなかったと思う。関口存男の足元にも及ばない。しかし、それに引き換え、最近の若い人はどうであろうか。若い人などと言えるような立場にあるわけではないが、勉強する覚悟が感じられないのだ。自分の身の丈に合わせて、まあ、できることをできる限りやって、ダメだったらそれはそれでいい、というような物分りのいい研究者(の卵)が増えているような気がしてならない。

みんなで分担して自分はここをやります、と言った住み分けをしたりもしている。だが、それでそのものの本質を理解できるだろうか。本質は分担して一部を理解することでは決して辿りつけない。自分の頭で読み、考えて初めて本質に近づくことができる。もちろんその本質と思ったものが誤解だったということもあるかもしれないが、いずれにせよ、一部を分担して後は人任せでは、そんなところにさえ行着きはしない。

僕の思い出を下手な文章で綴っても迫力がでないので、最後にもう一つ、関口存男の「語学をやる覚悟」という文章を載せておくことにしよう。これも上記の『生涯と業績』に載っていたが、ネット上にあったものを、少し字句を改めて転載する。この「かかァの横っ面を張り飛ばす」覚悟、というのが、印象に残っている文章だった。

「語学をやる覚悟」関口存男

△本当に語学を物にしようと思ったら、ある種の悲壮な決心を固めなくっちゃあ到底駄目ですね。まず友達と絶交する、その次にはかかァの横っ面を張り飛ばす、その次には書斎の扉に鍵を掛ける。書斎の無い人は、心の扉に鍵を掛ける。その方が徹底します。

△意地が汚くなくっては駄目です。欲張っていなければ駄目です。うんと功利的出なければ。ユダヤ人が金をためるように。なるべく執念深く、しつこく、うるさく、汚く、諦め悪く、非常識に、きちがいじみて、滅茶苦茶に、がつがつと、居候が飯を食うように──兎に角しつこく、しつこく、しつこく。

△あっさりした気持ちを持った亡国的日本人なら其の辺にいくらだって転がっています。しかしそんなのは何人いたって仕様がない。ちっと『しつこい』のがいなければ。梃子でも動かないのが。諦めの悪いのが。往生際の悪いのが。がつがつした下品なのが。

△こういう事をいうと、頭っから反感を持つ人があるかも知れません。よろしい、反感をお持ちなさい、但し学問はおやめなさい。殊に語学は。(語学だけではないでしょう?)

△たとえば、こどもが御飯をたべるのを見ていて御覧なさい。傾向が二つあります。ある種の子供は、好きなおかずだけ先に食べてしまって、あとをお茶漬けにして、いい加減にすましてしまいます。ところが、十人に一人位は、すきなおかずだけそっと横へ取っておいて、まず不味い方のおかずから食べ始めるのがある。──こういう風なのは、それを側で見ていると、心根が陋劣で、乞食のようで、とても正視できない。ところが、こういう風なのが尊いのです。学者になるメンタルテストだったら、私は此の方を採用したいと思いますね。学者ばかりとは限りません。

△意地は汚いほど宜しい、諦めは悪いほど結構、凝り性で,業欲で、因業で、頑瞑で、意地っ張りで、人に負けるのが大嫌いで、野心家で、下品で、つきあい憎くて、可愛げが無くて、『こんな奴と同居したらさぞ面白くなかろう』といったような性格……私はそんなのを尊びます。こういう一面を持とうと欲しない人は、本当に勉強はよしたが好い。殊に語学は。殊にドイツ語は。

△勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな了見だけは決して起こす可らずです。余計なことですからね。『人に好かれる』なんて、人に好かれるような暇があったら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。

△今日の社会は(今日の社会に限りませんが)決して価値ある個人を欲してはいません。だから、社会の欲する無価値な人間になるか、社会の欲せざる価値ある人間になるか、問題は此処です。

△世間はどんな人間を好むか?『つきあい好い』人間を好みます。つまり、一緒にお茶でも飲めるような人間をですね。一緒にお茶が飲めなくちゃ仕様がありませんからねえ!

△ところでさて、世間様とご一緒にお茶を飲むためには、やはり、世間様とご一緒にお茶を飲むような人間である事が必要です。そうでない人間は何処かこう煙たくて、しんみりしませんからねえ。頭の中にお茶話以上の考えを持っている人間なんてのは、どう見ても人に好かれる方の型ではありません。努力しつつある人間なんてのは、まったく興ざめですからね。座が白けますからね。

△世間はそんなものです。そういう世間の真っ只中にあって、殊にドイツ語でも一つ叩き上げようという時には、実際一つの悲壮なる決心が必要です。

△ドイツ語も、今日では、もはや数年前のある種の過渡期を通過して、今はもう殆ど英語と同じほど一般的になってきました。ちょっと噛ったからといって、それでもう一かどドイツ語を心得たような顔のできる時代は、もうちょっと過ぎ去ったといっても好いのではありますまいか。

△『俺は勿論語学者なんぞに成ろうとは夢にも思わない、俺にはもっと高尚な対象がある、その単なる手段として語学をやるのだ』──そんなやり方では到底駄目です。

△要するに、そんな言い草は通用しません。『ちょっとやって見る』とか、『手段としてやる』なんてやり方はありません。『やる』以上は『やる』。やるに二つはありません。

△およそ時間の上から考えても、エネルギーの損失の上から考えても、また自己教養の立場から考えても、そう大して深入りするつもりでも無い物を、ちょっとした興味でやって見るほど馬鹿馬鹿しい努力はありません。ちょっとやって見るための対象としては、ドイツ語なぞは恐らく最も不適当なものでしょう。

△乃木将軍の失敗談をご存知ですか?彼は旅順を強襲によって一息に乗っ取ろうとして失敗しました。沢山の人命を犠牲にしたのち、やっと『打算と忍耐と根本的な態度』とによって、じりじりと迫らなければ駄目だという所に気がついたのでした。

△ドイツ語は持久戦です。まず腰をおろして考えましょう。中腰の考えと、あぐらを組んだ上の考えとでは、考えがおのずから違って来ます。坑道を掘って敵塞の『下』に迫りましょう。大岩層に逢着したら、コツコツと、一片また一片と岩を崩して行きましょう。相手は岩ですよ。敵ではありません。敵だの勝利だのといったような事はもはや当分の間問題ではありません。それはもはや戦争ですらもありません。仕事です。涯しなき労作です。無限の穿掘です。試練です。凝視です。根くらべです。

△目標は無限の彼方にあります。そして鼻の先は岩です。そして岩の背後は岩です。そのまた背後も岩です。岩、岩、岩、岩、当分は岩です。

△掘りましょう!

(昭和六年六月「独逸語大講座」(全六巻)の第二巻附録)

今はもう関口存男の本はほとんど手に入らなくなったが、最近、池内紀の『ことばの哲学─関口存男のこと』という評伝が出版された。関口存男のドイツ語学を言語哲学と捉え、さらにそれをウィトゲンシュタイン(ほぼ同時代人だった)と比較しつつ書いている。今なら本屋に行けは必ず置いてあるので、興味のある人は手にとって見てほしい。
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