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僕のただ一人の先生─ゲシェ・テンパゲルツェン─ [チベット]

 最近は聞かれることもなくなったが、以前はよく、先生は誰かと聞かれたものだ。もちろん学生であれば多くの先生の授業をとっているはずであるが、その質問の意図は、誰に付いて専門の勉強をしたのか、という意味である。学界では、どの先生に習ったかで、その人の学問の姿勢・内容がある程度決まってくるのである。そう聞かれたとき、僕は、チベットのゲシェ・テンパゲルツェン師だけがただ一人の先生だと答えてきた。指導教員という意味では、他にもお世話になった先生はいるが、僕が専門としているチベット仏教について教えを受けた先生は、ゲシェラ以外にはいないのである。

 そのゲシェラが8月12日に南インドのデプン寺近くのご自宅で逝去された。トゥクダムの期間(徐々に心が肉体を離れていく過程)も終わり、昨日荼毘に付されたと文殊師利大乗仏教会の野村君から連絡があった。ゲシェラを多くの日本人に紹介したのは、彼の功績である。ゲシェラが東洋文庫にいる頃には、ごく一部の研究者しかゲシェラを知らなかった。東洋文庫のチベット研究室でゲシェラのお世話をしていた僕には、当時のゲシェラの様子を書き留めておく責任がある。とはいえ、記憶は混乱し、時間的な順序(これはこちらを参照)を再現することはできないが、僕にとってゲシェラが唯一無二の先生であったことを、感謝の気持ちを込めて記しておきたい。

 ゲシェラは、大学院生の僕が東洋文庫にアルバイトに行ったときに、すでに最初の5年ほどの東洋文庫滞在を終えて、ゴマン学堂の僧院長に就任するために離日する直前であった。その後3年度ほどして、僧院長を辞められ、再度来日されて東洋文庫にいらっしゃったときから、親しく教えをお聞きすることができるようになった。ゲシェラは日本語もある程度おできになっていたので、研究室では、文語チベット語混じりの日本語でコミュニケーションをとっていた。

 僕はチベット研究室の専任研究員として、ゲシェラの招聘の手続きや外国人登録、下宿探しや納税の手続き、入管での滞在許可の更新、インド大使館での身分証明書の延長手続きなどのお手伝いはしたが、すでに日本生活に慣れていたゲシェラは、日常生活のほとんどを一人でされていた。後のゲシェラを知る人たちからしたら、信じられないような生活だった。北区西ヶ原にあった東京外大の近くの4畳半の古い木造アパートに住まわれ、毎日、東洋文庫まで30分ほどかけて歩いて通われた。後年の龍蔵院にいらっしゃる頃と違って、ゲシェラはこのとき、ずっと一人で暮らしておられたのである。

 東洋文庫では、僕が1時間程度テキストの解釈について質問をする以外は、黙々とテキストの作成や校正、目次作りをされていた。当時は、日本の仏教学におけるチベット仏教の知識は非常に限られたものであった。僕もチベット仏教を学ぶ機会はなく、ただ、インド仏教学の延長として、チベットの学僧の書いた文献(チベット撰述文献と呼ばれていた)を、分かるところだけ拾い読みしている程度であった。そもそも、チベット仏教の研究というものをどのようにしたらよいかの手本さえもなかった。ゲシェラに何を教えてもらえばいいかも全くの手探りで、チベット風にテキストの伝授を受けるなどということは、想像だにできなかった。僕は自分で読んでいるテキストの分からないところをゲシェラに質問して、ゲシェラはその質問に答えて説明をしてくれる、という具合であった。当時の僕は、論理学を専門としていたから、いきおい質問する内容も仏教論理学のテキストの解釈ということになったが、それも系統だって聞いていたわけではなかった。

 しかし、それだけだったら、ゲシェラが僕のただ一人の先生であったとは言えないだろう。インドの文献を継承するような注釈書や概説書は、インド仏教と同じように読んでいっても、徐々に理解できるようになる。しかし、まったく歯の立たない文献があった。『ドゥラ』と呼ばれる論理学の初等教科書である。何も難しい言葉が使われているわけではないが、ただ、字面を追っているだけでは論理の展開の意味が理解できなかった。また辞書に出てこない独特の表現が要処要処に用いられていた。注釈書などは、説明として書かれた文献であるが、『ドゥラ』は先生が説明するための実例集なので、口頭での説明がないと意味が理解できなかったのである。

 少しずつチベット仏教の文献に親しみ、チベット仏教に関する知識が増えてくると、この『ドゥラ』が若い出家者が最初に徹底して身に付けなければならない技術と知識であることが分かってきた。さらに、それ以外の文献の中にも、この『ドゥラ』で使われた概念や論理が前提となっていることも分かってきた。

 それを僕は毎日ゲシェラに少しずつ教えてもらった。使ったのは、ジャムヤンシェーパの弟子のセ・ガワンタシという方の書いた『セ・ドゥラ』というテキストであった。といっても伝統的な教授法ではなく、あくまで分からない箇所の意味をお聞きするということだった。二人はまず一文くらいずつ声をそろえて読み、その内容について、僕がこういうことでしょうか、この意味はわかりません、などと質問する。それに対してゲシェラが説明をしてくれるというやり方だった。

 実際には、テキストの後の方があまりにも難しくて最後まで読み通すことはできなかったが、それでも、他の文献にも利用されるチベット論理学固有の表現形式や議論の運び方については、ほぼカバーできる程度の勉強はできた。

 『ドゥラ』に用いられるような技法は、さまざまなチベット仏教文献に利用されている。後代の文献になればなるほど、あるいは教科書のような著作になればなるほど、その割合は増える。たまたま手に取ったインド仏教の延長のような註釈書だけではなく、チベット仏教固有の議論を理解していくためには、これらの知識は必須であるが、それはテキストを読んだり辞書を調べたりしても、決して学ぶことのできないものである。まさに「口伝」が必要になる。僕はそれをゲシェラに教えて頂くことで、チベット人の書いたものを読み解くために欠くことのできない知識を手に入れられたのである。

 東洋文庫に勤め始めた30年近く前から、大学院生の希望者にチベット語文献の講読をしてきたが、数年に一度、熱心な学生がいるときに『ドゥラ』を教えた。ゲシェラの教えて頂いたことを自分なりに消化しアレンジし、日本語の訳し方と説明の仕方も工夫を重ねてきた。『ドゥラ』を教えた学生(早稲田大学の大学院生だった龍蔵院の野村君もその一人である。)は今でも何らかの形でチベット仏教と関わりを持っている。よくよく考えてみれば、僕の手解きした学生の中でチベット仏教を研究するようになったのは、それらドゥラを教えた学生ばかりである。やはり『ドゥラ』はチベット仏教の最初の入り口に違いないのである。

 僕の伝えたかったことが全部伝わっているかどうかは分からないし、またゲシェラが教えて下さったことを僕が誤解したり、聞き漏らしている部分もあるかもしれない。しかし、ゲシェラに教えていただいたこと、ゲシェラに教えて頂かなければ決して分からなかったことを、日本の中で伝えられたことで、ほんの小さい範囲ではあるが、伝統を受け継ぎ、それを次の世代に伝えられたという秘かな満足感を感じてはいる。

 僕が教えて頂いていた頃のゲシェラは、今の僕と同じくらいの歳であった。まだ疲れも知らずに、僕の質問に、いつでも「どうぞ、どうぞ」と言って快く答えて下さった。むしろ、僕の方がお聞きするのに疲れてしまって、「もう少し自分で考えてみます」と言って引き下がるほどであった。その頃に、今の僕ほどのチベット仏教の知識と理解があれば、もっと多くのことをお聞きすることが出来ただろうと残念に思いもするが、しかし、時間を逆に戻せない以上、それが僕の、そしてその時代の限界であったと思い直してみる。

 ゲシェラが逝去され、かつての東洋文庫でゲシェラに習っていた頃を思いだし、最近ゲシェラを知るようになった人には思いもつかない質素で、孤独な東洋文庫でのゲシェラの姿を、そっとここに書き記しておく。僕にとってただ一人先生と呼べる方であったテンパゲルツェン先生のご冥福を祈りたい。
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