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インド論理学研究会の思い出 [雑感]

 もう30年ほど前になる。大学の前にいくつもある喫茶店の一つ「アルマート・タムラ」に集まり、小さな机を囲んで三人の若い研究者が仏教論理学の読書会をしていた。今となっては、毎週だったのか、月に一度だったのかも忘れてしまったし、一体どういう経緯でその三人が集まったのかも忘れてしまった。僕の他は、先輩であった松本史朗さんと金沢篤さんの二人である。お二人とも現在は駒澤大学教授であるが、当時、松本さんは大学院を卒業されて駒澤大学に講師として赴任された頃、金沢さんはまだ博士課程に入りたてくらいであっただろうか。僕は修士の2年であった。

 そのテキストは、インドの仏教論理学を大成したダルマキールティという大論理学者の最初の主著であった。その難解な思想を初めて詩とその注釈として著したもので、論理学者らしい、極めて簡潔、しかも論理的に必要十分な表現を駆使したものだった。したがって、散文の注釈であるにもかかわらず、その意味を理解することも、日本語に訳すことも困難を極めた。

 そのテキストを読みたいと提案したのは松本さんだった。当時、世界の仏教学研究を牽引していた(今でもそうだが)ウィーン大学のシュタインケルナー教授の論理学の論文がおかしなことを言っている、それは間違っているように思われるので、ダルマキールティのその部分を丁寧に読むことで批判の論文を書きたいということだった。

 つまりわれわれは松本さんが1年後くらいだったかに論文を書く、その研究の過程に付き合わせていただいたことになる。それはとても刺激的であり、また修士2年の僕にはとても勉強になった。その三人は、論理学についての共通の方向性を共有するようになったが、それは他の多くの研究者とはかなり異質なものであった。話が通じないくらいに違っていた。その距離は未だに縮まってはいない。

 そのダルマキールティのテキストはあまりにも難解なので注釈を参照する必要があったが、当時の東京には、どこを探しても、その戦時中にインドで出版された注釈書はなかった。そこで既に仏教論理学の研究が始まっていた京都大学にいらした赤松明彦さんに連絡をしたところ、服部正明先生(既に服部先生はディグナーガの研究をアメリカで出版されていた。)の蔵書のコピーを頂くことができた。松本さんがそれを京都まで取りに行ってきた。これが東京に仏教論理学の灯のともった最初である。あるいは、仏教論理学の基本テキストが伝来した最初である。今からは信じられないような時代であった。

 そのころ僕は修士論文のテーマを考えており、松本さんにチベットで書くか論理学で書くか迷っていると相談した。松本さんはチベット仏教の研究についても大学院時代からわれわれをリードしていたのである。松本さんは、自分だったら、このダルマキールティの難解なテキストを勉強する、その方が最初からチベットをやるよりもずっと勉強になる、とアドバイスしてくれた。僕はそれに従って、修士論文では、読書会で最初の3ページしか読めなかったテキストを少なくとも半分くらいは読み進めて論文を書いた。博士課程に進学してから、そこで得た解釈を二つの短い論文(各々4ページだった。)とそのしばらく後にもう一つのやや長めの論文に書いた。三つ書きはしたが、言いたいことはいつも同じで、ただ表現を変えて言っているだけであった。

 松本さんの論文の完成を機に読書会が終息に向かっていた頃、その読書会を「インド論理学研究会」と、いつからとはなしに呼ぶようになった。さらには『インド論理学研究』という雑誌も出そうという話もあった。しかし、読書会が消滅したあと、その研究会も雑誌も幻のものとなってしまった。

 なぜ、突然こんな昔話を始めたかというと、今年、松本さんが還暦を迎え、その記念として金沢さんが発案して『インド論理学研究』を創刊することになったのである。それがつい最近出来上がって手元に届いた。そこに当時話題になった懐かしいテーマについて、金沢さんが再度検討した論文が掲載されていた。その後のダルマキールティ研究の進展にも拘わらず、当時の理解を超えていないことを指摘するものであった。また当時の思い出を綴った松本さんの文章もあった。そこで、30年前に時間が戻ったような、突然頭の中が若返ったような感傷が呼び覚まされたのである。

 松本さんが還暦を迎えられるということ、そしてその論文が発表されたのが1981年だったということを考えると、その当時の松本さんは30歳になるかならないかであり、僕は23か24、金沢さんは25か26ということだったのだろう。僕がやはり20代後半から30歳頃まで発表した、その成果の論文は極めて短いものであったし、あたかも数学か論理学の本のように、極めて簡略な文章、推論のみが連ねられたような論文であった。そのため多くの人には理解されなかったようである。ダルマキールティの文章を読み、論理的に考えれば、分かるはずという若者の奢りがあったのかも知れない。しかし、その内容に不十分な点はあるにせよ、僕の理解は間違っていないと今でも思っているし、それを多くの研究者は理解していないことも知っている。しかし、その後のダルマキールティ研究の進展を考えた場合、ふたたびその点だけをテーマに論文を書くわけにも行かず、そのままに放置していた。

 金沢さんの論文は、当時のわれわれ三人の論文を、その後の同じテーマの論文と比較しながら、ダルマキールティの理解が進展するどころか、退歩している現状を批判する内容のものである。僕は埋もれてしまった自分の研究がふたたび取り上げられているのを見て、やはりまた別の感傷に浸ったのであった。

 その後は三人とも別々の研究領域でそれぞれの成果を上げてきた。僕は、『インド論理学研究』という名前に恥じないような、インド仏教論理学を扱えるだけの準備はなかったので、チベット論理学についての論文を書いた。ただ、その当時仕込んだ知識や理解は、今、論理学を研究する学生を指導するときの基礎になっている。もちろん、学生は先生の言うままに研究するとは限らないし、それでは独り立ちした研究はできない。しかし、その出発点において、論理的な思考と、その論理的な思考を極限まで突き詰めたダルマキールティの文章の読み方を習っておくことと、ぼんやりした意識でその同じ文章を読み始めるのとでは雲泥の差があるはずである。

 ダルマキールティの魅力については、また別の機会に書きたいと思う。彼がどんな文章を書いていたのか、それを読むと言うことがどういうことなのか。きっとブログには相応しくない内容になるかもしれないが。

 この『インド論理学研究』は会費などで刊行されるのではなく、市販の雑誌であり、できるだけ販売できることが好ましいという。9000円という、やや高価なものではあるが、図書館や研究所など公共の機関ではできるだけ購入してほしい。その願いを込めてここに目次のPDFを置いておこう。またインド論理学研究会のWebサイト(ブログ)も立ち上げられので、それも紹介しておきたい。
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23回目の記念日 [雑感]

 僕の誕生日は三月、妻の誕生日は六月、そして結婚記念日は五月にある。イベント、というほど盛り上がるわけではなく、ただ毎年の節目を数えているだけである。それでも僕たちは、毎年、その日か、都合によってはその前後に、一緒に記念の食事に出かけたりする。

 こうして、僕たちは、誕生日と結婚記念日を毎年迎えてもう23年になる。あした妻の誕生日が来る。そして僕たちはまたいつもと同じように食事に出かける。この記念日が毎年変わることなく続いてきたように、振り返ってみれば、僕たちの生活もこの23年間ほとんど変わることなく続けられてきた。

 僕たちには子どもがいない。だから子どもの成長と共に成長することもなかった。ごろうちゃんとるりを迎えはしたが、それも成長からはほど遠い。僕たちは大人になることもなく、子どもでもないままに、何も変わることもなく暮らしてきた。この家の中では、誰も成長することなく、ただ時間が過ぎていくだけである。いや、そもそも時間が過ぎているという実感さえもない。

 まるで天界にいるかのようだ。天界の時間は人間界の時間よりもずっとゆっくり流れる。ただ安楽に暮らしているうちに知らぬ間に時が流れていく。

 僕たちの生活は外の世界の変化からも、それほど影響されることなく、波風も立つことなく、天界の安楽を享受しているようである。確かに時は過ぎては行く。天界においても。僕たちも「天人五衰」ではないが体の衰えは感じている。教えている学生は毎年変わり、その都度対応も変えなければならないし、悩ましい問題も出てきたりはする。本を出したり論文を書いたり職場を変えたこともある。

 ただこの家の中での生活は、それらの外の変化とは壁を隔てて、何もかもが永劫回帰のように平穏に繰り返されてきた。これが僕たちのこの世での運命であるかのように。他の選択肢などなかったし、考えられもしなかった。この生活がこれから変わるとすれば、僕たちのどちらかの、この世での寿命が尽きるときである。それは確かに少しずつ近づいてはいる。しかし、その時が来ても、何も思い残すことはないにちがいない。ずっと充足した日々が続いてきたから。後悔をしたり、何かが足りなかったりすることはなかったから。

 その最後のときを迎えても、そのときの悲しみさえも、もっと長い人生の、かすかな変化に過ぎない。僕たちはまた別の世界で再び何かの形で出逢うにちがいない。僕たちは以前にもどこかで出逢っていたような気がする。そうでなければ、どうして二人(と一羽と一匹)の生活がこれほどまでに安定して続くであろうか。

 すでにその兆しはある。るりは、そうやって一度、この世を去ってからしばらくして同じ姿で僕たちの家に戻ってきた。もう一度若返り新しい肉体をもって。一年も経ってみれば、もう昔と変わらぬ大人の猫である。これからまた寿命が尽きるまで僕たちとともに生きていくだろう。同じように心通わせる毎日を送りながら。

 僕たちが亡くなったら、いつかはまたどこかで若返って出逢うにちがいない。そしてまたチベットのために力を尽くそうと誓うだろう。チベット仏教の教えが永遠の真理であるように、それを支えようとする僕たちもまた永遠に回帰していくにちがいない。この23年間の変わらぬ生活を振り返って、この地球を訪れた束の間の時間をこの四人が出逢い共に過ごしてきたこと、その運命と奇跡に人生の深い意味を思わずにはいられない。
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銀杏並木の続き [雑感]

一週間後の東大の銀杏並木。
葉は大分おちて、路上に散っていた。
例年なら、もっと厚い絨毯のようになるのだが、
今年はギンナンの匂いもなく、道路の石畳が見えている。
今年はこれで終わりだろうか。
下の画像はクリックすると大きな写真が見られます。
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最後の画像だけは、5時半過ぎて暗くなって街灯が付いてからの画像です。
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東大の銀杏並木は [雑感]

毎年のことだけれど、いつみても素晴らしい。
毎年金曜日に訪れているので、一番の見頃を逃しているかも知れない。
今回も、まだもう少し緑が残っている。
紅葉は秋、と言うけれど、もう冬になりかけているのに、銀杏が完全に色づくのはもう少し先かも知れない。
そして、そのあとは、道がふかふかのゴールドの絨毯を敷いたようになる。
この紅葉があるから、秋は一番感慨深い季節になる。

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炭水化物制限食とウォーキング [雑感]

 以前にも書いたと思うが、僕は食後に血糖値が急上昇する。ブドウ糖注射後30分おきに測る負荷検査では、その間じっとしているので、さらに血糖値は上がり、糖尿病と診断されるレベルになってしまう。しばらくすると下がるのだが、上がっているときは血管にダメージを与えているので、そのままにしておくわけには行かない。

 そのために僕はここ2、3年、食後にウォーキングをするように心掛けている。東京にいるときに毎晩御嶽神社にお参りに行っていたのも、そういう血糖値管理の意味もあったのである。往復1時間くらいかかので、運動量としては十分で、おかけで歩くときとじっとしているときの違いも体感できるようになっている。

 朝食や昼食のあとも、できるだけ歩くようにしている。食後どのくらいで、どのくらいの時間歩けばいいかは、自分の体の体感に基づいておおよその目安が分かるようになっている。

 京都にいるときは、朝も昼もたいてい食後は授業なので、ウォーキングほど効率的ではないが、じっとしているよりは体を動かしているので、よしとしている。夜は、なかなか食後は歩けない。どういうわけか、京都の夜は散歩には適していない。どこに行くというあても無く、また人通りも少なく、どこがどう違うのか、結局、京都では夜は外食して帰る以外の運動はしなくなっている。

 以前、血糖値を細かく調べたことがあるが、少し負荷の高い運動をしても、血糖値にはあまり影響はない。メタボ対策にはなるかもしれないが、端的にそのときの血糖値を下げるという効果は、ウォーキングが一番いい。自転車を乗るのでも駄目である。おそらく、足だけではなく、手を振って歩くことが大きな効果を生み出しているのではないかと思う。手を振ることで、上半身の血流が格段によくなる。軽くねじれが生じるので、上半身全体の筋肉が緊張する。ジョッキングでは少し負荷が高く、心肺機能の強化にはいいが、血糖値も上がってしまうような感じで、血糖値コントロールには効果は低いと思う。

 もし、血糖値が高いのでジョッキングするという方がいらしたら、それよりもウォーキングの方が無理がなく効果的だと言って上げたい。

 もう一つ、僕がしているのは、炭水化物制限食である。炭水化物あるいは糖分をできるだけ摂らないように心掛けるのである。特に主食を抜くのが一番簡単である。いろいろと気にしてみていると、さまざまな食品には必ずといっていいほど炭水化物・糖分が、いくらかは含まれている。だから、主食を抜いても、それなりに炭水化物を採っている。なので、意識的に制限するくらいがちょうどいいのである。

 そういう制限食をするようになったのは、今年の2月頃からであるが、最近のニュースに次のようなものがあった。

> ダイエットは低炭水化物法を=低脂肪法より効果大−研究チーム
>
> 7月19日5時54分配信 時事通信
>
>  【シカゴ18日時事】ダイエットでは最も一般的な低脂肪法よりも、信頼性に疑問が持た
>  れていた低炭水化物法の方が効果が大きい−。こんな研究報告をイスラエルのベングリ
>  オン大学を中心とする国際研究チームが米医学誌「ニューイングランド・ジャーナル・
>  オブ・メディシン」最新号で発表した。
>
>  同チームはイスラエルの322人(男性が86%)を3グループに分け、(1)低脂肪法(カロ
>  リー制限あり)(2)野菜、穀類を中心にしてオリーブ油を多用する地中海法(同あり)
>  (3)低炭水化物法(同なし)−の3方法に基づく食事をそれぞれ2年間続けてもらい、体重
>  などを分析した。
>
>  その結果、2年後の体重減少幅の平均は低脂肪2.9キロ、地中海4.4キロで、低炭水化
>  物が4.7キロと最も良かった。低炭水化物法では、善玉コレステロールも増加したとい
>  う。 

 善玉コレステロールも増加するのは嬉しい。実際、この制限食を初めて2、3週間経ったときの血液検査でも、善玉コレステロールが増加していた。それよりも半年前には、基準値いかだったのである。

 食後に炭水化物は最も血糖値を上げると言う。脂肪分やタンパク質も少しは上がるが、ゆっくりである。それに対して炭水化物は急激に上がる。いわゆる食後血糖値が上がってしまい、血管へのダメージが大きくなる。それを防ぐことができるのである。

 体感的にも、血糖値が上がらないことで、体が楽になるのが分かる。

 とはいえ、これまた気にしてみると、炭水化物を摂らない食事を探したり考えたりするのは、とても難しい。世の中こんなにも炭水化物に依存しているのか、と思ってしまう。定食はおかずよりもご飯を沢山にして、お腹を膨らませる。どんなものでも、おかずは、基本的に主食を食べるための付け合わせ程度の量しかない。だから、意識的に主食を摂らなければ、かなり効率的に炭水化物の量を減らすことができる。そして、それだけ胃も小さくなったのか、ときどきご飯を食べると、お腹が痛いくらいに一杯になってしまう。

 おかげで、僕は炭水化物の制限食を始めてから、2kg以上痩せた。BMI値も21.2と、ちょうどいい具合である。久しぶりに会った人に、痩せたと言われるが、今が標準体重であると言うことは、以前はそれなりに太っていたのだなと思うこの頃である。
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森有正 [雑感]

 今、森有正の本といっても、新刊ではなかなか手に入らなくなっている。1年前には全巻買えたちくま文庫版の『森有正エッセー集成』全5巻も、今や第1巻以外は品切れで手に入らない。昨年これを手に入れた人は幸運だった。本がなくなれば、それを知っている人も少なくなっていく。新たに森有正の本を手に取る人はいなくなるだろう。

 もちろん、古本屋には、時々代表作『遙かなノートル・ダム』が出ていることはある。貴重な本のはずなのに、数百円の値付けだったりする。かく言うぼくも、単行本はほとんど持っているが、ないものもあるということで古本屋で森有正全集を購入した。

 確かに、時代の雰囲気にマッチしていないと言えるかも知れない。森有正を哲学者と言うべきか、思想家と言うべきか、はたまたエッセイストと言うべきか、それは難しい。しかし、現在、彼のようにオリジナルな思想を持っていて、書店の本棚を占拠している人に誰がいるだろうか。現代は、静かに語る思想家よりも、ベストセラーになる軽い読み物で名を上げる人の方が圧倒的に多い。あるいは、思想家ではなく、社会学者や政治学者が、気の利いた言葉を並べた思想書まがいを出していることが多い。それが思想の進歩を意味しているのであればいいのだが、単に世の中の移り気な性格のせいかもしれない。

 それには出版社の姿勢というのも、関わっている。出版社は内容よりも売れる本を企画し、出版する。内容が問題になるときにも、売れる内容かどうかが問題とされる。売れない本は作られない。森有正の本が消えていくのは、売れないからだろう。そして何故売れないかと言えば、その文章のテンポが現代にマッチしないからかもしれない。こんな悠長な本を読んでいる時間はない、もっと手っ取り早く、目立つ内容の本を読みたい、そういう読者層の要求が、売れる本を作りたい出版社に訴えることになる。

 森有正の本に書かれている具体的な内容は、もう過ぎ去った時代、終戦後から高度成長期の時代のことである。エッセーである以上、時事的な話題に言及するのは仕方がないが、彼の思想自体は必ずしも時事的なものに依存しているわけではない。ただ、その古びた話題の中から普遍的な思想を読み取ってくるのは、結構骨が折れるのである。今では意味の無くなった、あるいはよく分からなくなった話題を延々と読まされるのは、僕でさえ退屈になる。

 では、その思想は時代遅れだろうか。彼の思想は、極めて独自な形であるが、実存主義、あるいは実存の哲学と言ってもいいような趣を呈している。実存主義と言えば、サルトルもまた少し前まで忘れられた思想家だった。最近、新訳や新装本、文庫本などが相次いで出版されて、再評価されつつあるが、彼の場合は、もっと致命的な問題を抱えている。彼の「哲学」の評価が低いと言うことだ。哲学的には彼の主張は破綻を来たし、現代の哲学の水準に達しているとは言えない。その中に何か見るべきものはあるかもしれないが、その主張そのものと全面的に対決する価値はもはやなさそうである。

 森有正も「哲学者」としてパスカルやデカルトの研究をしている。果たしてこれらが、それ自体として今でも意味があるかどうかは、疑問である。僕は専門を異にするので、現在の研究水準からこれらを評価することはできないが、少なくとも、これらが後代に影響を与えうるとはとても言えないように思われる。

 むしろ、森有正の真骨頂は、『バビロンのほとりにて』などの手紙形式のエッセー、そしてとりわけ、筑摩書房から出ていた三冊のエッセー集『遙かなノートル・ダム』『旅の空の下で』『木々は光を浴びて』に収録されいる文章で伺うことができる。特にこの三冊のエッセー集は、「経験」「定義」「感覚」「内面の促し」「変貌」など、普通の言葉に独自の意味を担わせる森有正の思想が、系統だって展開されている。

 森有正と共に、これらの言葉が彼の中でどのように生まれ、どのように成長していったかを一緒に辿っていくとき、僕たちの日常の見方もまた知らぬうちに、彼の定義した言葉によって彩られていくようになる。しかもそれは僕たち自身の経験の深まりをもって。

 今後、機会があれば、少しずつ彼の思想について書いていきたいと思う。最近の僕は若い頃読んだ本を、もう一度年を隔てて読み直したいという衝動を感じているのである。
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餓鬼道が連れて来た [雑感]

 餓鬼道がうちの庭で発見され埋葬して日、夜に僕が帰ってきてから、お経を上げ、そのあと疲れてはいたが、夜の9時半ごろ、近くの散歩に出かけた。

 その道すがら、近所の廃屋の荒れ果てた玄関先に、二匹の猫の影がよぎった。引き返してみると、子猫が二匹と母親猫が一匹、僕たちを避けて家の奥へと行きかけていた。きっと廃屋で子供を産んだのだろう。子猫は20cmくらいの小さい猫だった。よく、子猫の写真集に出てきそうなくらいの子猫だった。

 彼らは僕たちの出方を見守って固まっていた。僕はとてもゆっくりとしゃがんで、ゆっくりと手を差し出し、猫の声音を真似た。すると、子猫の小さい方がとことこと親猫から離れて半分くらいまで近づいて来た。そこに座ってじっとこちらを見ていた。何かご飯が出てきたら寄ってきそうな感じだった。僕はさらに、母親が子猫を呼ぶ、喉を鳴らすような声を真似てみた。あきらかにこちらに関心を持っている。

 まだ子猫は人間を恐れていないようだった。母親は後ろで警戒し、声を出さずに威嚇するような顔で、口をあけ「はー」と息を吐いていた。しかし、子猫はそんな母親の警戒心には無頓着なようだった。これはうまくすると連れて帰れるかも知れない。

 といっても、手を伸ばせば、すぐに手の届かないところに逃げてしまいそうだった。しばらくご飯を上げて警戒心を解く必要があった。

 餓鬼道を弔うことのできた晩に、新しい子猫と出会った。餓鬼道が自分の代わりにその猫を連れてきたように僕たちは感じた。

 その日、深夜にもう一度その場に戻って、僕はお皿に生餌を入れてきた。猫語で呼んでも答えはなかった。

 次の日、もう一度10時過ぎにその廃屋に行って声をかけたら、慌てて猫たちが奥に引き返していった。僕はフェンスをずらして中に入り、昨日のお皿が空っぽになっているのを見て、ふたたび餓鬼道の食べ残していた生餌をそのお皿に盛ってきた。フェンスの外にでると、恐る恐る子猫がそのご飯のお皿に近づき、そして、一心不乱に食べ始めた。お腹が空いているらしかった。食べるのに夢中で、僕が手を出し、猫語で呼んでも、無視されてしまった。

 翌日も同じようにご飯を上げ、しばらく自転車で回りを回ってからもう一度戻って、またしばらく、猫語で話しかけた。子猫たちはまだ齧り付くようにして食べていた。しかし、たぶんかれらの僕の存在は印象づけられただろう。猫語をはなす男の人は滅多にいないから。

 もう少ししたら、子猫を引き取ってこよう。このままにしていたら、遠からず、またいなくなってしまうだろうから。
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御嶽山の猫 [雑感]

 以前、御嶽神社に毎晩お参りに行くときに見かける「タケちゃん」という猫について書いたことがある。その後、他にもう一匹、「一号」と僕たちが名付けた猫が来るようになった。最初はタケちゃんのおこぼれをもらうために寄ってきたのだが、そのうちに僕の根気強い説得に少しずつ心を開き、直接お参りしている僕の足下で脛こすりをするようになった。僕はこうして警戒心の強い動物と仲が良くなるのが上手いのである。

 一号はタケちゃんのような美猫ではなく、いじけた感じの小柄で尻尾もまん丸い猫である。警戒心が強いので人の近くには行かない。タケちゃんの兄弟のようでもあるが、ときどきはタケちゃんが威嚇して追い払おうとすることもある。

 しばらくすると飽食し、みんなに可愛がられていたタケちゃんは(人なつっこいせいもある。)僕が行ってもそれほど喜ぶ風ではなく、また見かけないことも多くなった。それに対して一号は鳥居を入ったらすぐに境内の中から走り寄ってきてくれる。そして、境内を、時々こちらを振り向きながら僕と一緒に走っていく。

 段々と栄養もよくなり小柄なのに丸々と太ったちび猫になった一号は、後から見るところころっとしたぬいぐるみが走っていくように見えた。脛擦りする力も強く、僕に会える歓びを体中で表現していた。

 それが、あるとき、妻がタケちゃんを撫でているときに、神主の一人が出てきて、猫に餌をやらないでくれ、と行っていったそうである。そして、神社の外の近くの美容院の前の電信柱に「とても迷惑しています。のら猫に餌をやらないで下さい」と書いた張り紙が張り出された。

 結局は、それぞれの都合がぶつかっているということなのだろう。そして人間の都合で動物の命は簡単に否定される。要するに「のら猫は迷惑なので、飢え死にさせることに手を貸してくれ」とその張り紙は言っているようだった。確かにその張り紙を書いた人はそこまで意識はしていないだろう。だが、結局は人間の都合で動物を排除せよ、それに協力せよ、なぜならば、自分が困っているのだから、ということになるだろう。

 迷惑と思うか思わないかは、その人の気持ち次第なのである。だから、迷惑と思っている人がいるならば、それは迷惑なのだ、という意味ではない。ものすごく身勝手な人間がいたら、他の人が迷惑と思わないことも迷惑になってしまうだろう。全部を本人の気持ちに還元してしまうのが共同社会の倫理ではない。人間としての成熟した良識を備えていることが、まずは必要な条件なのである。

 迷惑をかけられたくないから、人にも迷惑をかけない、人からあれこれ言われたくないから、慎む、というのは、本当の倫理ではない。人間は人の立場を尊重し、人のことを思い遣り、人に害を与えない、というのは、人間の「あるべき姿」であり、それは利害損得とは関係のない「定言命法」なのである。

 一体、猫のかける迷惑とはどんなものか。人間は生きているだけで自然に対して迷惑をかけているではないか。そういう迷惑を多少ともかけつつ、他者を尊重しながら生きていくのが人間のあるべき姿ではないか。

 タケちゃんも一号も去勢されていた。つまり誰かが手をかけていた猫だった。のら猫というカテゴリーには入らないと僕たちは考え、それ以後もご飯を上げ続けた。そして、ある日から、僕たちはタケちゃんも一号も、そしてときどき、盛りの季節に出没していた全ての猫の姿が御嶽神社から消えたてしまった。そして僕たちは別の神社にお参りするようになった。
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餓鬼道の生涯 [雑感]

 久しぶりの更新である。久しぶりに書かなければならないことが出てきた。以前の記事に白い大きな猫がお腹を見せて寝ている写真を掲載したことがある。僕たち(夫婦)は彼に「餓鬼道」という名前を付けた。この不名誉な呼び名は余り評判はよくなかったが、僕たちが彼に出会ったときに感銘を受けたその行動に由来していた。

 餓鬼道は、四つ辻に陣取っては、ご飯をくれそうな人、かつてご飯を恵んでくれた人の足下に駆け寄っては、ご飯が出てくるまで大声で空腹を訴え続け、しばらく後を追ってきた。今回はダメだと分かるとまた四つ辻に戻って次の慈悲深い人を待ち受けては、ご飯をねだる、そういう猫であった。

 その四つ辻は、18年連れ添った老猫るりの散歩の通り道でもあったので、毎晩、るりと餓鬼道はお互い警戒しながら、るりは遠回りをして通り過ぎていた。るりは急激な老衰の末、お正月すぎに亡くなった。猫を亡くした僕は、しばらくしてその餓鬼道をご飯で手なずけ、少しずつ自分たちの家の前までおびき寄せ、そして、門の中に入れ、最後には玄関の中でご飯を食べさせることに成功した。少しずつ警戒心を解いていき、かわいがってあげるよ、という僕の思いを伝えていったのだ。

 とうとう家猫になり、うちで寝て、うちで一日四食を食べ、トイレと見回りに行くという日々だった。出会ったときから既に成猫だったので、歳ははっきりしたことは分からなかった。しかし、1年もすると、単に家で食べて太っただけではなく、外に出て見回りをしている時間が増えてきた。さらに頻繁にあちこちでケンカをする声がするようになった。

 掲載している写真の下腹部の毛が薄くなっている。これはここを猫キックで蹴られて大けがをした跡なのである。その後もここは何度も蹴られ、そしてほとんど毛が生えなくなった。それだけではなく、喉に大けがをして返ってきたこともある。縄張りを主張する本能は旺盛なのに、それを守る強さはなく、いつも負けて大けがをして帰ってきていた。

 問題は、そうやって大けがをしているのでお医者さんに連れて行こうとすると、ものすごく抵抗をした。キャリーに入れるのに手をひっかかれ、お医者さんでキャリーから出そうとして、入り口を逆さにしても踏ん張って下りてこない、無理矢理引き出そうとする先生の手も傷だらけ、その上、失禁をしてしまい、診察台の上はびしょびしょ、大きすぎるので拘束着に着替えさせることもできない、二人がかりでの治療だけれども、すぐにかみつくのでほとんど治療にならない、という状態だった。

 二度とその病院に連れて行くことはできなかった。

 僕たちの失敗は、去勢をしなかったことだった。餓鬼道は雄猫の本能のまま縄張りを主張し、女性を求め(もう去勢されていない雌猫はいないのに。)、ケンカをし、そして当然のことながらエイズに感染し、治療を拒否し、そして、段々と痩せていった。まだうちにきて3年だというのに。

 特に去年の暮れからは、あの写真の猫とは同一と思えないくらい痩せてきた。がりがりだった。段々と食事も食べられなくなっていった。口内炎が酷いのでお腹は空くが、口に合うものがなかなかないのだ。僕たちは、何種類もの猫缶を買っては、試してみた。あるとき食べられてもすぐに食べなくなった。出したのに半日たっても食べない日々が続いた。それでもお腹がすくので、ご飯の場所にはやってきた。しばらくうつらうつらするように座っていたが、また寝床に戻っていった。

 そのうちに、外にトイレに行くこともしなくなった。部屋の隅とか、書類の上とか、座布団の上とかで、隠れてするようになった。外出から帰ったら、まずはどこかに粗相していないかを確認しなくてはならなかった。そこで、室内用のトイレを置いて、そこに猫のトイレ用の木くずを入れて置いたら、餓鬼道はフラフラしながらそこに行って、細くなった足で踏ん張りながらトイレをするようになった。

 教えたわけではないのだが、もともと飼われていた家でトイレのしつけがしてあったのに違いない。その家からも、たぶん別の猫との争いに敗れて出てきてしまったのかもしれなかった。

 体中の毛は一度も毛繕いしないためによれよれになっていた。そして体自体は骨と皮ばかりになっていた。以前にるりのときに貰ったステロイドが残っていたので、それを飲ませることに成功することもあった。そうすると少し楽になるらしく、外に出たがった。しかし、猫は死に場所を求めて彷徨うことが多いので、できるだけ外には出さないようにしていた。そのころには、トイレまで行き着くことが出来ず、その場で粗相するようなことが多かった。

 それでも、ある晩、薬のせいかやっと立ち上がりフラフラとドアのところまで行って、こちらを向いて、出して欲しいと弱々しく声の出ない声で鳴いたので、そのときはドアを開けて上げた。そして、それが餓鬼道を見た最後だった。

 薬のおかけで体調が少しよくなったので、他に、お世話になっていた家にでも行ったのかもしれないと思って待っていたが、いつまでも餓鬼道は帰ってこなかった。いつ帰ってきてもいいように、そのガラス戸はずっと開けたままにしておいた。1月の寒いさなかだった。餓鬼道はついに帰ってこなかった。どこかで亡くなっていたら、うちが飼っていることは近所の人も知っているだろうから、通報があるだろうと思っていた。

 二、三日は、近所を探して回りもした。でもいなかった。

 そうして夏になった。僕は庭仕事が苦手なので、雑草の生い茂った庭を植木屋さんに任せてきれいにしてもらうことにしている。そうして昨日から来てくれた植木屋さんが、門から入った玄関の隣の草むらの中からミイラ化した餓鬼道を発見したと妻から連絡があった。もう半年経っていた。皮と骨ばかりになっていたせいか、餓鬼道はその姿を留めていたそうだ。持ち上げたら軽かったそうである。

 妻はその場所に穴を掘って、餓鬼道の寝ていたタオルケットに包んで埋葬した。そして夜に僕が帰ってきてから二人でお線香を上げ、お経を上げた。

 あれほど可愛がって、何でもしてあげたのに、よかれと思うことをしてあげたのに、その思いは餓鬼道には届かなかった。餓鬼道は自分の本能の赴くままを行き、短い生涯を終えた。るりは18年一緒に過ごしたのに、餓鬼道は3年で子供から大人になって、そして自らを傷つけるような生き方をして、エイズになり痩せこけて亡くなってしまった。悲しい以上に、僕には腹立たしい思いが残ってしまう。なぜ、そんな馬鹿な生き方をしたのか、そうしなくてもよかったはずなのに。

 もちろん、そのために僕たちはもっと早くに虚勢をするべきだったのだ。あるいは、自分の好きに生きられたのだから本望だったという意見もあるだろう。でも僕は、やはりもっと長生きして欲しかったし、もっと心を開いても欲しかった。それだけのことをしてあげたのだから。

 妻は、夜にときどき外で「にゃ」という猫の声を聞いていたそうである。そこで亡くなった餓鬼道が早く自分を発見してくれと訴えていたかもしれなかった。
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初詣でおみくじを引く [雑感]

 今年の初詣は、東京にいる限り毎日お参りに行っている御嶽山神社でした。そういえば、昨年もそうだった。しかも、僕らは神殿にも手を合わせますが、目的は境内にある延命地蔵尊にお参りすることにあります。その由来は、僕が書いたか、それとも妻が書いたか、どこかに紹介してあると思うので、ここでは繰り返しません。

 元旦だからといって、お参りをしないわけもなく、結局それが初詣になったわけです。元旦は実家に表敬訪問をしましたから、お参りに行ったのは、帰ってきてからの深夜でした。もう境内には神社の人たちはいませんでしたが、この神社は地域の信仰に根付いていて、たとえ深夜でもお参りに来る人がいます。

 そのためか、おみくじも、神社の売店の前の棚に置いてありました。料金を入れて、くじ引きみたいに手を箱の中に入れてかき混ぜてから引くタイプのものです。ちょっと安直ではありましたが、ここで、今年の初占いをしました。普段から通っている神社ですから、浅からぬ付き合いになりますので、神様もきっと真剣に占ってくれるだろうと思ったのです。

 そこででたのは、大吉とはいきませんでしたが、全然問題のない「吉」です。これは持って帰りました。

久しい間のくるしみも、時が来て自ずから去り、なにごとも春の花咲く様に、次第次第にさかえてゆく運です。安心してことにあたりなさい。

とあります。こんな前向きなおみくじは、ここのところ引いたことがありませんでした。「久しい間のくるしみ」ってのは、ここのところずっと引いていた凶のことなんでしょうか。実際には凶は引いても、人生が苦しかったわけではないのですが。

 昨日は、さらに恒例の山の手七福神回りをしかけましたが、出かけたのが午後4時近くでしたので、結局、目黒不動から大円寺に行ったところで時間切れ、大円寺も僕らがお参りしたのを最後に仕舞われてしまいました。それでも、恒例の辛めのおみくじを引きました。こちらは「末吉」。まあ、おみくじの占いの序列では凶の一つ上、という、やゆっぱり辛口のお寺です。ほんとに。

 でも、書いてあることは、そんなに悪くないような気がします。そもそも「末吉」というのは、後で吉になる、という意味です。このおみくじはお寺に置いてきてしまったので、詳しく内容は忘れてしまいましたが、上の吉と同じように、これまでの苦労が実って、何事もうまく行くようになる、病気も本復するし、失せものも出てくる、といった、今後に期待の出来る内容でした。

 神社でもお寺でも似たようなご託宣でした。ということは、やっぱりそういう年になるのかな。

おなじ初詣の妻側の記事はこちら


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